2023-8-31

読書

久しぶりに電車に乗って名古屋に出て、帰りに金山で買い物をした。いつも通り本屋と百均と雑貨屋を回っただけだが。20 時の金山には自由な人間しかいない。家族の帰りを待つために帰る母親も、明日仕事で遊べない社会人も、お金がなくて遊べない中学生もいない。自由な人たちに混ざっていると自分も自由な人間だと肌で感じることができる。頭では自分は自由だと理解していても、家にいて幻の自由をネットで追いかけるだけでは病んでいくだけだ。

本屋には長くいた。本を手に取ってパラパラと読んでは戻した。本を選べる自分を演じたくてそうしているのだが、結局買ったのはディスプレイされていた本である。なんとなく悔しい。

小学生の頃、2 週間にいっぺん、図書館に連れて行ってもらっていた。家族全員の貸し出しカードを合わせると 40 冊借りれる。毎回自分の本を 20 冊ほど借りて読んでいた。もちろん全部は読みきれないし、開かずに返す本もあった。でもそれがよかった。あの頃は面白そうな本は本棚にあっても背表紙が光って見えた。面白いと直感で感じた本がやはり面白かった時のしてやったりという気持ちは爽快だった。こんなふうに本が選べていたのは、きっとたくさん本を借り続けたおかげなのだと思う。

しかし、中学生になり高校生になり、忙しくなっていつのまにか図書館へは通わなくなり、本を手に取る機会も減った。高校の図書館に司書さんがディスプレイしてくれている本は面白かったが、それでも月に 1、2 冊読めば良い方といったところだった。図書館に行っても本屋に行っても本は光って見えなくなった。本屋では内容が薄くて商魂逞しいような本ばかりが目について、心の中でそれにケチをつけるのが楽しくなってしまった。一方でそれは悲しかった。でも高校生の頃はまだ本との出会いがあった。友達は本が好きだったし、国語の先生も面白くて、内田樹や遠藤周作や橋本治を勧められ、また、大学生の夏休みにはレミゼラブルを読もうと心に誓った。

大学生になった。でも夏休みにレミゼは読まなかった。あれほど自由だと聞いていたのに時間がない。あるのに Twitter や YouTube やネトフリに時間が吸い取られていく。小学生の頃、本に没頭して本の中の世界を味わい尽くしていたあの読書に比べたら薄っぺらくてチンケでつまらないのに、でもいつのまにかスマホを見ている。なんとなく頭がふわふわと楽しくて、他のことを考えないようにしてくれればなんでも良いんだなと思った。小学生の頃の自分に負けているような気がした。

高校の時に本を読むのが好きだった友達は、大学生になってもまだ本を読むのが好きだった。友達の住む大学の寮の前には自由に本を持っていける文庫が設置されていた。一冊自分の本を入れたら一冊持って行って良いという仕組みだ。友人はそこで私が知らない作家のエッセイを借りて読んでいた。友人のその本を選ぶセンスがなんとなく羨ましかった。ちなみに、その友人は共通テストのときに世界史対策と称してマルクス・アウレリウス・アントニヌスの自省録を読んでいた。これもそのセンスが羨ましかった。

そういったセンスは一朝一夕に得られるものではない。その友人のセンスはその友人が読んできた本やらなんやらによって作られている。だから今のセンスに注目するのではなく、その友人がセンスを獲得してきた過程にこそ注目するべきだとは思う。しかし、今や YouTube やインスタでセンスのある人達はいくらでも見つけることができる。こんなにも世の中にはセンスが溢れているのだから、自分も簡単にセンスが身につけられるはずだ、というある種の傲慢さが私の中に芽生えて不機嫌な顔をして居座っている。

でも最近は少しずつ本を読もうとしている。とりあえず森博嗣の S&M シリーズを読破したい。これは本を選べるようになるための読書である。とにかく縦横無尽に活字を摂取するのである。本が光り輝いて見えたあの頃と、同じ輝きを手に入れることは二度とできないだろう。過去の美化された幻影など追っても虚しいだけである。だからあの頃の幻影を追いつつも、今の自分なりの読書を作っていきたいと思う。